vol.1
格差とモノの価値
1.世界の格差
格差、という言葉を用いると、持つ者、持たざる者といった印象があるでしょうか。今考えているのは、先進国と途上国についてです。たとえばここに、1つの野菜があるとします。東京で購入すると200円です。燕で買えば100円です。さらに、ヴェトナムで買えば20円だとします。野菜の大きさは東京が一番小さくなります。当然と言えば当然です。東京での販売にはコストがかかります。店舗の維持費、人件費、輸送費、中間に関わる人たちもいます。200円は、「東京からふんだくろう」という200円なのではなく、単純な必要経費積み上げです。これはメガロポリスのほぼすべてに同じことが言えますし、先進国のほとんどに適応できるロジックです。そして先進国には200円が購入できる層が豊富にいて、途上国には20円を購入できない層が豊富にいる。さらにいえば、200円で売れるマーケットが優先され、20円のマーケットにはものがなくなっていく。少し簡単に言い過ぎですが、これらは格差と呼ばれるものであります
2.モノの価値
しかし、野菜がもっている「価値」に違いがあるのかといえば、もちろんありません、人間に提供する栄養や、お腹を満たすバリューに違いはない。これは、あらゆる製品に同じことが言えます。たとえば、スマートフォンはいかがでしょうか。当然、その存在の価値は変わらない。しかし、10万円のスマートフォンを変える層が先進国には豊富にいるのに対し、途上国では4万円を購入できない層が豊富にいます。かつてはこれはそのまま「格差」で良かったのですが、現在ではここに、マーケティングの逆転が起こっていると考えています。つまり、スマートフォンの価値に変わりはない。であれば、2万円のスマートフォンを途上国に投入できれば、その市場は独占できるということになります。現在、世界のスマートフォンのシェアをみてみると。
https://news.yahoo.co.jp/articles/ae0a464667ccce36b309693e62c81c874fce9d29“層"はますますはっきりと分割されつつある、という印象でしょうか。世界的にみれば、10人いたら1人がアップルをもっている計算ですね。3人がサムスンです。これをマクロにみれば、iOSとAndroidの戦いということになります。ファーウェイがGoogleを使えなくなったとはいえAndroidが圧倒的大勢を占めるのはメーカーみれば明らか。わずかでありながらも、急速に増えているのが中国勢の独自OS(使わざるを得なくなったため)という構造。逆に言えば、中国製OSはとんでもない追い風です。OSの産出国という単位で見れば(組み込み系は日本が作っているTRONが世界シェアが大きいのですが、まあアメリカですね陣営は)、実質的に中国とアメリカしか世界に存在しないも同義で、中国系OSを使っている層はこれから爆発的に増えていきます。というのも、アメリカOSを使ったスマホは高級品すぎて途上国ではほとんど入手するのが現実的ではないレベルだからです。
3.課題
現状は、国単位の所得に応じて手に入るスマホがほぼ決定してしまうので、まあまあ高級品スマホか、安価なスマホかがメインになるのかという段階です。中古市場が注目されるのはこの観点でもありますが、メーカーとしてはこれだけのスピードで進化する品物の過去製品全部のサポートはほぼ現実的ではない。従って、「安価で新品なスマホ」を欲する人々の方が世界的には圧倒的多数を占めると思われます。その「安価で新品なスマホ」という単位で見た時の品質最高というレベルに中国がいるわけです。ということで、中国には発展途上国マーケットを独占するための、先進国にないマーケティングノウハウをもっていることはほぼ間違いない。そして我々のもとには、それを裏付けするある機械の情報が上がってきています。それは、全自動の溶接機械。世界トップメーカーだと6000万する機械で、中国製は1000万でした。数年前には比較すらできない代物でしたが、今や加工品質はもはや遜色ない。実際に拝見しましたが、驚愕するレベルです。機械の品質も全く悪くない。もちろん、毎年品質は向上するでしょう。これは一体何を意味しているのか。つまるところ、低コストで作らねばならないものは、途上国の成長に合わせて増えるものの、製造コストを落とす努力はもう先進国は限界。そこに、全く新しいノウハウが登場しつつあるという情報の格差が生まれているのではないか、ということです。同時に、膨張する途上国マーケットにアクセスできる能力を、先進国は失いつつあるのではないかという思いが頭をもたげ、今自分の思考をとらえてはなさなくなりました。残念ながらコロナになって、現地に行けない状態が続いていますが、今、様々な途上国マーケット、中国の製造の現場を見に行かねばという焦燥感でいっぱいです。行動によって、知見をためる時代が”今再び"の様相です。